惰性

早乙女かな子とかいう作家の最近とか。

居場所の話。居場所カフェをやってみたい。

 

コロナ禍を振り返り、思ったことは何よりも「居場所」の重要性である。

 

自分なんかがもし子どものときにコロナ禍に遭遇していたら、えっらいことになっていただろうなあと思う。

 

家族が不仲の5人暮らし、都内のせっまい3LDKの戸建てに軟禁状態。おうち時間とか悠長なこと言ってられなかったと思う。そして、こんな思いをした子どもが多かったんじゃないかなって感じた。実際に、コロナ禍での子供の自殺率が少し上がってしまったと聞いているので。

 

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コロナ禍を経て、サードプレイスという概念が叫ばれるようになり(この言葉自体は昔から存在していたようだが)、子どもでも大人でも等しく、学校or職場、そして家庭でもない、第三の居場所の重要性が叫ばれている。

それはコロナを抜けてきた今でも変わらない。なのに、この世の中には気軽に入れる居場所が少なくないだろうか?

 

私の本の帯はたぶん担当編集か校閲の人が決めたんだと思うが、「不器用すぎる居場所探しの記録」と書かれている。

何を隠そう、昔から私は居場所探しが下手クソである。自身を持って言える。

今ようやく入社した会社でも、自分のキャラやポジションの落としどころに迷って3か月が過ぎ、夏が来てしまった。

 

会社、楽しくないわけではない。リモート可、フレックスでも何でもいいよって言ってくれる部署なので、適度に人と距離を置いて、ギリなんとか保てている。ちょっとおもろくて好感を持っている年上の先輩もいる。出張でときどき遠くに行って楽しい。ただ、アラサー新卒、扱いに困られてるのか、若干みんなが私の使いどころには注意を払っているようである。

(一応院卒なので、専門スキルはあるが、社内や業界の知識がない。なので、何かやるときに自分が社内外の人と折衝をするわけではないが、意見だけ伺われるという、トーク番組のご意見番みたいなポジになってしまっている。・・・いや、こういう意味ではポジが確立できてるのか?実質社内ニートのようだが。)

 

ともかく、”居場所”とは私の人生の命題なんだと気付いた。

そして、居場所を求める子どもたちに対して差し伸べられる手は、圧倒的に都会に集中している。トーヨコキッズとか、グリ下とか、ああいう所にはNPO法人の人だったり、警察だったりなんだったりが、既にいっている。物理的な居場所でなくても、話を聞いてくれる大人が一人いるだけで、それはもう居場所なのかもしれない。

先ほど述べたように、大人にも等しく居場所は必要で。家庭に疲れた主婦が一息ついたり、会社員が帰宅する前に一人になれたり、そういうサードプレイスは必要なのである。私も会社員になって思ったが、家とは違う空間でふらっと資格勉強できる場所が欲しいと思うこともある。

 

それに対して、私が現在住んでいる滋賀らへんでは、そういう居場所になれるのあたりがちょっと少なかったりする。特に物理的な居場所。そもそも人口比が少ないから、そういうビジネスに乗り出すところがないのもしょうがないよねっていう話ではあるんだけれど。コワーキングスペースや有料自習室も圧倒的に少ない。

カフェがあるじゃないか、とも言われそうだが、カフェはあくまでカフェで、飲食をすることが前提の店である。お金を払えば物理的な居場所が確保されるが、結局心はひとりなのである。

 

だから、勉強とか本読んだり、人とだらだら過ごすことが前提で、ついでにコーヒーも飲めるみたいな場所があったらいいんじゃないかなって思った。

町家とかぶち抜いて作ってみたいな。何か、新しくやりたいことができてしまった。